Monday, 11 August 2025

1969- 1970 Russian, French, German and Korean language

  


11. 1969- 1970 Russian, French, German and Korean language



1969年4月、私は無事和光大学人文学部文学科三年に編入学した。和光の二学年修了時までの外国語、前期一般教育科目の、外語からの和光への読替と振替については、編入学前に親身に相談に乗ってくださった山崎昌甫先生の編入学後の御尽力もあって、体育以外はすべて完了し、体育のみはすでにグループ学習を続けているので、永井先生の途中参入は困難とのご判断で、それに代わる幾度かのレポート提出を案内してくださった。和光一年時履修のプロゼミについては、外語の中国語専門科目を週8コマで履修習得しているので、その一部をもって振り替えてくださったと記憶している。

この一連の処置に対して私は、新年度の多忙なときに山崎先生がなさってくださった、身に余るほどの御尽力に、今も心から感謝している。私は短い一篇の詩を、山崎先生への感謝を込めて、書き綴ったことがある。

AT THE LAWN TERRACE BEFORE LIBRARY

しかし私はそれほどまでにして、私という一学生のやや特殊な大学からの編入学のためにご尽力してくださった山崎先生に、卒業に際して、私はなにひとつの御礼も申し上げることなく卒業した。その悔いは今も深く残っている。私が先生にお礼を述べたいと痛切に感じ、先生の近況をGoogle で検索したとき、先生はすでにその数年前に逝去されていた。私という人間のありようがそこに凝縮されていた。私は、自分のことしか考えない、そうした生き方しか、してこなかった。

1971年3月の和光卒業に際しても、教職という進路は確定していたが、そして多くの方々に支えられてきたのに、私はみずからの生涯の目標を見極めることが、まったくできないでいた。私は大学に学ぶために来た。しかしそこからさらに何かの新しい目的に向かって歩む、そのための準備や方途をまったく考えることがなかった。私はただ、いくつかの言語状況についてアジア諸語の一部から西欧諸語の一部に至り、その中で言語の本質を探究したいというような、亡羊とした思いを抱いているだけだった。1970年の夏だったとおもう。私は乗換のために下車する当時の国鉄八王子駅北口のくまざわ書店で、一冊の厚い詩集と出会った。フランス装というのであろうか、柔らかい表紙で思潮社から刊行された新刊、清岡卓行著『清岡卓行詩集』だった。その場で読んだ一篇に私は心を奪われた。私が今なさねばならないことが、そこに、つらかったあの入院の日々をも含めた完璧な形で、現前していた。購入したその詩集を私は今保持していないが、のちに購入した『清岡卓行全詩集』思潮社 1985年からその長詩「大学の庭で」の後半を引用する。

「そこで若し きみに死への夢から生の建設へ向かう意思が可能ならばそして若し きみになんらかの好ましいが学問がありうるならばそれこそはきみの純潔を裏切ることが最も少なく世界へのより豊かな愛をいつもかたどる試みにほかならぬのではないだろうか?なぜなら きみの純潔はどのような憤怒の極北にあってもきみ自身にとって美しいものだけはどうしても拒むことができなかったからだ。つまり美しいものにおいて自己を実現することそのきびしく結晶されるかたちこそ学問と呼ばれるわざくれにきみの魂の血液を惜しみなくめぐらせることではないのか?その拠点からきみは さらに美しいものすべてを眺めることができる。それはきみの微かな不死だ!きみは選ばなければならないきみのたどるひとつのさびしい学問を。なかば 偶然のように。そして なにものかに 深く羞じるように。(おそらく きみの見知らぬ  この世の悲惨な現実に  直観的に  無意識に羞じらって。)他のさまざまな可能性を捨てることはいかにもさびしいことなのだ。きみが読みふけったあのアカシアと社交界サロンの町の病床の作家が若い頃しるしたようにどのように大きい一輪の現実の花も空想の花束にはおよばないかもしれない。少なくとも 無為のためには!しかし やがてきみの恋人の懐かしい個別性の中にしか人類の温い深みが無いようにきみの学問と創造の特殊性の中にしか世界の美しい真実はありえないはずなのだ。」

和光での1970年の秋学期が始まると旧図書館前の掲示板には、来春卒業する四年生のための掲示が少しずつ増えてきた。しかし私の心は空虚だった。清岡卓行の詩のスタンザが木霊していた。「きみの恋人の懐かしい個別性の中にしか人類の温い深みが無いようにきみの学問と創造の特殊性の中にしか世界の美しい真実はありえないはずなのだ。」外語で二年、和光で二年、学んできたはずなのに、私にはいかなる「学問」もなかった。その現実が身に染みた。外語でのひたすらな語学訓練、和光での自由で多彩な受講と先生方とのふれあい。その四年間の中で、「きみは選ばなければならない」はずだった。しかし私にはそれができなかった。掲示板の前のにぎやかさの中で、私の肩は沈んでいた。なぜだったのか、今は少しそれがわかる。私は勤勉だった。それは認めよう。しかし私は凡庸だった。他者が私をどのように評価しようとも、私はみずからの凡庸さを痛いほど知っていた。高校時代に席を隣あった金子は、そのことを私の面前ではっきり言っていた、おまえが物理をやるのかと。

のちの和光の研究生時代、千野栄一先生は、「構造言語学」の講義のあと私に言った。「そういうことはやめろ、それはWittgenstein などがやることだ、おれたちのやることではな」と。凡庸な人間が天分のある人々にあこがれる、私はその一人だった。大人になっていく中で、人は多くを学び、さまざまな多様な価値を見い出し、そうしたあこがれを脱し、みずからに独自な生き方を習得する。しかし私はそのあこがれに固執した。急にはできない、しかしゆっくり時間をかければ私にもできることがあるかもしれない、そうおもっていた。そのためには多くの時間を必要とするかもしれない、そのことも自覚していたはずだった。清岡卓行の詩句が身に染みた。「きみは選ばなければならないきみのたどるひとつのさびしい学問を。」その「さびしさ」が秋学期の掲示板の前に立つ私の足元を木の葉のように散っていた。しかし私はあきらめなかった。私の中にある、楽天性がわずかに悲観性をうわまわっていた。

言語学の講義の中で、語素が出てきたことがあった。その先生はおっしゃった。語末の変化、すなわち活用や曲用によって、こまかな文法的変化を具体化することができると。私はおもわず挙手して質問した。それでは語形変化のまったくない中国語の場合はどうなりますかと。先生のお答えは簡潔だった。「今は中国語を除外して考えます」。広大な中国語圏、正確には漢語圏を、まったく除外した言語学。アルファベットで代表される西欧言語学では覆いきれない広大な言語世界が、少なくとも私の目の前に、すなわちこのアジアに広がっている。表音文字のため、文字学が深化しなかった西欧の言語学に対して、中国の言語学、「小学」は、紀元前の「詩経」の音韻学等検討を経て、中国の近代、清代には目くるめくようなめざましい深化を体現していた。段玉裁、王年孫、王引之、王国維、章柄麟等々、枚挙にいとまがない。ここにひとつの大きな基盤があることを、私ははっきりと認識していた。そこまでは行っていた。しかしその先へどう進むか。清代の「小学」を祖述するのは私には魅力がなかった。未知の世界へ、しかしどうやって。 

「きみは選ばなければならないきみのたどるひとつのさびしい学問を。」和光で私は決して無策であったわけではない。1969年編入学とともに、私は千野栄一先生のロシア語を受講し、単位を取得した。学年末試験は口頭試問で、先生が提起したロシア語の、語形変化を口頭で答えるものだった。翌年1970年には、ナタリー・ムラビヨワ先生のロシア語会話を受講し、単位を取得した。1970年四年生の受講届をB棟で提出したとき、職員の女性の方が、私のロシア語、フランス語、ドイツ語、朝鮮語の受講申請に対して、「言語学を専攻なさるのですか」と尋ねられたが、普通にはそう見られたかもしれない。ロシア語はまったく未学習であったし、その文字がキリル文字であったため、多くの初心者がその文字が障害になったと述べているので、それは早く親しんだほうがよいとおもっていた。それに対してフランス語とドイツ語についてはその初歩は既習であったので、語彙を増やし講読に慣れるのが主目的であったため、結果的には単位取得までは至らなかった。1970年の秋学期が始まったドイツ語で、女性のおだやかな先生が、出席確認のときに、「田中さんは試験を受けませんでしたね」と尋ねられた。春学期、多分皆出席に近かったため、不審におもわれたのであった。私は申し訳なく、単位が目的ではありませんでしたので、すみません、とお答えした。今おもえば不遜で失礼なことであった。しかし先生はわかりましたとだけおっしゃってくださった。

私のアジアからの言語学習は、1960年代末の私はもう一つの夢を抱いていた。それはモンゴル語の学習へとつなげることだった。現在のモンゴル語の言語表記 system には伝統への回帰が見られるが、1960年代末のモンゴル語表記は旧ソ連の影響もあって、ロシアと同じキリル文字が採用されていた。キリル文字が読めれば、あとはモンゴル語の文法に集中できると単純におもっていたのであった。モンゴル語には日本語にも部分的にみられる母音調和等の、魅力的な言語事実があり、かつ、私の中では、日本から朝鮮半島へ、そして中国大陸に入り、モンゴルの高原を過ぎ、ロシアへと入ってゆく、いわば Silk Road 絹の道の、逆コースを知らず知らずのうちに選択していたことになる。Silk Road の南道を行けば、チベット語からサンスクリット語への道が並行して存在した。それは当時顕著に意識していたことではなかったが、1979年に専攻科生になり、日本古代の仏教典籍で代表される漢語資料の豊富さに直面し、その初歩的な読解に多くの時間を割くようになり、Silk Road の言語的逆走の夢は実現しなくなったが、新たに、『大正新脩大蔵経』100余巻の広大な世界と出会い、私はこの初歩的な講読に、かなりの時間を割くようになった。特に魅力的であったのは、大乗仏教後期に高揚した、無著・世親等の精緻な仏教哲学の諸典籍群との遭遇であった。ワトソンとクリックの螺旋構造の遺伝子を彷彿させるような空間認識構造に出会うなど、今もなお『大正新脩大蔵経』は、私にとって無限ともおもわれる魅力を蔵し続けている。この道へ導いてくださったのはすべて、専攻科時代の恩師、川崎庸之先生によるものであり、先生は私の生涯の師となった。


川崎先生から教示されたことはほとんど無数であった。ある日先生との会話が法制史のことにふれたことがあった。私はふと法制史の泰斗、中田薫先生のことを尋ねた。「中田先生はどんなお方でしたか」。先生の御返事は即座で簡潔であった。「白皙、鶴のような人だった」。先生と小説のことをお話したことはほとんどなかったが、あるとき幸田露伴に及んだとき、先生は「こうだろばん」と呉音的に発音された。日本古代には通常であった呉音の優しい響きを先生は好んでおられたとおもう。先生から指導を受けなかったら、私は仏教や歴史の書籍について、ほとんど無知に等しかったとおもう。先生からの教示がなければ、日本古代漢文を網羅した柿村重松著『本朝文粋評釋』上下二巻、冨山房、大正十一年刊を私が知り得ただろうか。私だけでは矢吹慶輝の生涯をかけた大著『三階教之研究』岩波書店、昭和二年刊に遭遇することはあり得なかっただろう。この書によって、私は浄土教が中国を含め、いかに広大で幽遠な歴史を含んでいるかを垣間見た。さらに決定的な一冊がある。それは、川崎先生の東大時代の恩師、常盤大定著『佛性の研究』丙午出版社 1930、国書刊行会 1972再刊、である。私はこの書のインドから中国を経て日本に及ぶ仏性の精緻な論証の一部を読み、この学問世界は私には遠く、はるかに及ばないものであることを認識し、これ以後私は仏教の理論的側面から離れ、『大正新脩大蔵経』の一読者になることを決めた。

華埜井先生のフランス語は、ほとんど無準備の状態であった教員試験のために、夏休みの前に単位取得をあきらめることとした。最も早かった山梨県の高校教員の試験は、夏休み中の八月に迫っていた。私はそれまでなにひとつ準備らしいことをしてこなかったので、夏が近づく中で思い立ち、和光の図書館で多分7月は閉館近くまで、ほとんど連日、一冊の問題集を解き、必要な部分を暗記することに努めた。私の語学への受講態度は恥ずかしいが、散漫といえばその典型であった。今思い返せば、悔やむことばかりであった。華埜井先生のフランス語教授に臨まれた姿が、今の私には憶い起こせない。先生がフランス語のどのような点に焦点を当てて、初学の私たちを指導されたか、それも憶い出せない。以下は私が卒業したのちの昭和48年度1973年度の『講義要目』に寄せた、華埜井先生と林辰男先生の受講者へのコメントである。

「フランス語 初級 B② B⑦この講座は文法ということになります。何もげっそりすることではありません。フランス語は実に論理的な、というよりむしろ堅牢な文法構造をもっています。往々誤解されるような甘ったるいものではありません。明瞭でないものはフランス語ではないといった名言もあります。うんざりするほどりくつで押してきます。だからかえって組みしやすい面もあるわけで、その気になれば数式を解くような面白みもあります。知的作業の基礎としてこれほどいいものもないでしょう。しかし、自発性が要求されます。といっても、必ずしもかた苦しいレッスンにするつもりはありません。」

この文章はお二人の先生がなさる講座の受講案内であるが、文全体の印象が、他の華埜井先生のフランス語講座の案内と似ているので、私には、多分先生がお書きになったのではないかとおもわれる。「論理的」「堅牢な文法構造」「りくつ」「数式を解くような面白み」「知的作業の基礎として」「自発性」、これらの語群が先生のフランス語への案内となっているようにおもわれる。特に「数式を解くような面白み」ということばは、もし先生のことばであるとすると、きわめて特徴的なものであろうか。以下の引用を参考にすると、さらに先生の姿が明確になってくるのではないだろうか。私が四年であった昭和45年度1970年度の『講義要目』に所載された、文学科専門科目・フランス文学の華埜井先生の講座案内である。私は受講したかった、しかし高度なゆえにあきらめた、私にとっては、先生畢生の講座のひとつではなかったか。

「フランス文学  華埜井香澄『テスト氏』をめぐってヴァレリーの文学の方法を探る。たとえば、観念と事物とのあるいは言語と肉体感覚との関係をヴァレリーがどのように認識していったか、その過程を詳しく検討してみる、といった方法を試みる。極めて難解なフランス語であるが原則としてテキストは原文のものを用いる。翻訳が幾種類もあるからそれらを参考にすることができる」と述べておられ、教科書として、Gallimard 版の Monsieur Teste を指定しておられる。この簡潔な受講案内は、すがすがしいほどにあざやかで毅然としている。先生のフランス文学に向かう姿が歴然として迫ってくる。多分ここに華埜井先生のフランス文学への若き熱いおもいがあったのではなかったか。実弟でいらしゃる華埜井究氏からはお電話で、兄は私が高校生のときヴァレリーのことを語ってくれた、と伝えてくださった。そうでなければ、高校生の私がヴァレリーのことを知っているはずがありません、と遠い日々を懐かしむように話してくださった。先生の優しさとご兄弟の温かさが伝わってくる、学問の世界を超えた、私には忘れ難いお話となった。

華埜井先生は一年生へのプロゼミも担当しておられた。以下は昭和49年度1974年度の『講義要目』に記された受講案内である。「プロゼミ Ⅰー8 『歎異抄』で読む 4単位  華埜井香澄『歎異抄』は13世紀に書かれた浄土教の信の問題を扱った極めて特異な作品である、その味い深い文章によって優れた文学作品の古典ともなっているものである。 授業では、この作品の購読を通じて「読む」ということはどういうことかをとくと考え、現代に生きる各々の「私」がどう関わるかをお互に発表し合うという形をとることにしたい。作品に用いられている仏教用語や親鸞特有の用語を正しく理解し、作品の滑らかなレトリックに乗って上滑りしないよう注意しよう。」先生の講座題名が、「『歎異抄』を読む」ではなく、「『歎異抄』で読む」となっていることが特異的であろう。『歎異抄』を読むことによって、読むという行為そのものを学ぼうとしたいと願う先生の方向がうかがわれる。「レトリックに乗って上滑りしない」という文面から、先生の言語に対する厳しい姿勢が感じられる。

私が確認できた『講義要目』の最後の年度、昭和51年度1976年度の「フランス語 上級A・C 4単位」は以下のようになっている。先生はこの年の4月に逝去された。先生が残された最後の講義要目である。「教科書ーJean Giraudoux;La guerre de Troie si durapas lieu(ジャン・ジロドウ;トロイ戦争は行われないだろう)」私はこの作家の名前すら知らない。いま私の手元にある『岩波ーケンブリッジ 世界人名辞典』岩波書店・1997年によると、「ジロドゥー、(イボリット・)ジャン」では以下のように解説されている。「(仏 1882-1944)作家、外交官. べラック生まれ. 外交任務につき、第2次世界大戦中は一時期フランス情報局長を務めた. 主に戯曲で知られている. そのほとんどがギリシャ神話や聖書の伝承に基づいた幻想的な作品で、現代生活への風刺がこめられている.「トロヤ戦争なかるべし」(1935)、「オンディーヌ」(1939)、「シャイヨーの狂女」(1945)などがあ.」先生はジロドウの作品を通して、和光の学生にどのようなことを伝えようとなさったのか。その真意はもはや確認できない。ただこの解説中にある「伝承に基づいた幻想的な作品」ということばから、私は先生の編著書『悪魔のしっぽ』三修社 1972年の「この本を読まれる読者に」で「夢の世界に遊ぶような楽しさを味わってもらえると思います。」という文面とどこか相通ずるところがあるようにおもわれる。華埜井先生の受講案内はこの年度で終わる。1976年1月に37歳となられた先生は、この年の4月28に胃癌で逝去された。この講義題目は先生が和光の学生に伝えた最後のメッセージとなった。

ロシア語はムラビヨワ先生の教授方法に魅了され、最後まで受講し単位取得まで行くことができた。しかし秋に先生が中心となって指導なさっていた、ロシア語祭で、私はロシアの詩朗読を先生から提案され、先生は美しいロシア文字を緑色のボールペンで書いて下さり、少しだけ暗唱の練習を行ったが、私にとってはかなりの長詩だったため、ロシア語祭のしばらく前に辞退を申し出て先生から了承された。語祭の当日は先生と一緒に会場となった教室に行って、受講者の健闘に拍手を送った。私は少しでもムラビヨワ先生と本当の会話らしいことをしてみたくなり、多分秋であったとおもうが、新宿の紀伊国屋書店に行き、ロシア語会話の本を探した。1970年初めでは外国語会話のテキストは、英仏独語を除くと極めて少なかった。やっとTeach Yourself Series の一冊を探して購入した。早速その一部を家で暗記し、教室で先生に話しかけたことがあった。先生はびっくりしたような表情で、「ミーシャ、どこでおぼえたの?」と質問された。私が書店での経過をお伝えすると、先生は急に上手になった私の会話を了解して笑顔になられた。懐かしい憶い出である。ミーシャというのは、私のロシア語会話での First Name であった。先生が一人一人に、好きな First Name をつけて いいですよ、とおっしゃったので、私はミハイルを選んだ。その略称がミーシャだった。

朝鮮語は、梶村秀樹 に教えていただいた。のちには朝鮮近代史のパイオニアとして、今では『広辞苑』にも以下のように記載されている。「【梶村秀樹】朝鮮史研究者。東京生れ。東大卒。 神奈川大学教授。戦後日本の朝鮮史研究の中心的存在。著「朝鮮史の枠組と思想」ほか。(1935ー1989)」先生は、私の和光在学中は、30代の若き先生であった。いつも肩の少し落ちた上着を着ておられた。朝鮮語は私にとっては中国語に次いで大切な言語であったので、秋になっても受講を続けたが、みなで五県受けた教員試験のために休むことが続き、事実上単位取得は困難となった。そんなある日、梶村先生からお葉書をいただいた。文面は「きみはずっと出席していたのに、急に来なくなったので、どうしたのかとおもっています」という内容であった。朝鮮語はごく少数の教室であった。私は先生のお気持に驚き、すぐにご返事を書いてお送りした。その中で、今もはっきり覚えている部分がある。「朝鮮語は私にとって、重要なものです。一時中断しても必ず学習を続けます」と私の気持をお伝えした。のち先生は神奈川大学の教授となり、私が専攻科生・研究生の時代にそのことを知り、比較的和光から近かったので、一度お訪ねしようとおもっていた。そしてある日、先生の突然の訃報に接した。

私は今も、先生との約束を果たしていない。私の朝鮮語は依然として未熟なままであり、十分な読解ができない。私はそれをいつか果たしたいと今もおもい続けている。朝鮮語単位未取得で卒業したのち、再び和光に戻った1979年の専攻科生時代に、私は長璋吉先生の韓国語を受講し単位を取得した。依然として初級レベルではあったが、梶村先生との約束をほんの少しだけ果たすことができたとおもっている。梶村先生と長先生は、仲がよく、当時確か渋谷にあった語学塾で、お二人がずっと講師をなさっておられた。この塾は所在地は変わったが現在も続き、まるで走馬灯をみるかのように、1990年代までに梶村先生も長先生も50代で亡くなられた。お二人の先生の御遺志を継がれるかのように、長先生の奥様がずっとお元気で講師を続けられていらっしゃる。長先生 ご夫妻は、韓国の延世大学でともに学ばれ、ご結婚後、奥様は日本に来られた。

私が、東京都立川市立中央図書館の開館に際しての簡潔な宣言文プレートの中国語と朝鮮語の文面翻訳を依頼されたとき、私の朝鮮語の文章を見ていただきたく、一度ご自宅を訪問したとき、奥様は用件を終えたあとの私に、「私のたくあんはきっと日本の方のよりおいしいかもしれませんよ」、とお話ししてくださった。まだ二人の娘さんが学生でいらっしゃった。2019年に必要があってお電話したときもお元気で、講師も続けられ、私は先生の名著『ソウル遊学記ー私の朝鮮語小辞典』のことを、改めて奥様お伝えした。娘さんは二人とも結婚なされ、「いまはもう孫もいます」と、うれしそうに話してくださった。「私はこのご本を多くの方に推薦致しました」とご報告すると、奥様は、「あの本は良かったわね」と、遠い日々を回想するようにして喜んでくださった。この日は長先生の生前をしのんだ一日となった。

長先生の憶い出は尽きない。和光でのある日、その日の韓国語講座終了後、窓外はもう夕暮れがとなっていた。先生は学生の退出したあと窓辺により、韓国留学のことを私に話してくださった。なぜそうしたお話になったのか、その経緯は今はもう憶い出せない。先生は外語の中国語科を卒業後、韓国へ留学された。その日々は先生の『ソウル遊学記ー私の朝鮮語小辞典』北羊社 1978年、にくわしい。この日の先生との会話が、なぜ今もなお強く私の心に残るのか。それは長先生のお話を聴いたとき、「私も先生と同じ外語で二年間学びました」と、お伝えしたかったからであった。しかしそのことはその日どうしてもお伝えできなかった。なぜなのかはわからない。先生と私とは同じ外語と言っても、その重みがまったく違う、きっとそう感じていたのかもしれない。私はすでに1979年のこの年32歳となり、専攻科で漢語資料を少しずつ読解しているだけだった。私の現実を知っている方が、そんなに多方面にわたってどうするのか、と心配してくださった。

私がみずからの主題を本当に知ったのは、2002年、肺炎で入院していた日々においてであった。病床から毎日、窓外に青く連なる奥多摩の山々を見ている日々だった。私は55歳となっていた。その翌年2003年になってから、私は初めてみずからの主題をまとめた三篇の論考を、3月から続けて書くことができた。そのうちの一篇を、私はその年の12月に奈良県立公会堂で行われたSilk Road に関する国際シンポジウムで、言語・文学部門い選ばれた4名の口頭発表者の一人して、Quantum Theory for Language 「言語の量子理論」という論題で発表することとなった。1967年の外語入学から36年が経っていた。Silk Road を言語的に逆走するという構想は、小さな一つの言語理論として、2003年56歳となってようやく結実したといえるのかもしれない。

この国際シンポジウムは、私に予期することのなかった贈り物を届けてくれることとなった。それはつづめて言えば、英語の常用ということだった。二日間に渡るすべての招待講演、部門講演、口頭発表、パネル展示等はすべて英語で行われた。それは国際シンポジウムである以上当然なことであったが、私に強いことばでいえば衝撃を与えたのは二日目の終わり近く、研究者の方々を中心に多くの人々がメイン会場に参集したとき、主題の性格から、洋の東西にわたり、特に中央アジアや中近東から参集したとおもわれる方々に間近に接し、まったく未知の母語を話される方々がおられる一方、より多くの方々が英語で滑らかに会話されている状況に接したとき、もはや汎世界での交流を行なおうとするとき、英語以外での精密な交流は多分困難であろうとはっきり認識したことであった。

これは、どの言語が優秀であるかなどとはまったく異なったものである。少数の大言語の独占的な流通によって希少言語がを滅亡に瀕している状況を言語を学んできた以上知らないはずはないが、汎世界が理解し合う方法として現在取り得る有効な方途として、英語以上に、文法的に簡潔で、ギリシャ・ラテンからアジアに至る広大な言語からの借用語彙の豊富な獲得等によって他には見当たらない自由で闊達な言語となってきた英語に、比肩する言語は現在のところ見当たらないであろう。英語史をひもとけば、ヨーロッパの一地域語に過ぎなかった英語が現在に至るまでのいわば格闘の歴史が刻まれた結果、初めて汎世界に使用される言語の位置を獲得してきたことがわかる。OED Oxford English Dictionary 完成までの苦難は今では映画にまでなっている。単語の初出年を可能な限り遡り、語源を遠くトルコ帝国にまで探る。そうした途方もない努力をOEDは絶え間なく行ってきて、それは今も続いている。世界からの援助も続いている。日本の英語学者、忍足欣四郎はOEDをくまなく点検し、100語以上にわたって語歴等の不備を発見し、それをOEDに伝えた。OEDはいまは世界の英語研究者の叡知の結晶と言ってもいいだろう。OED側もその都度彼らの労に報いていきた。

英文学者、福原麟太郎の随筆によると、第二次大戦前、英国で買い揃えたOEDの補巻が戦後刊行されたとき、OED側は福原先生の日本の現住所を調べ、自宅に無料で郵送して寄こしたと、書かれていた。『詩心私語』文藝春秋、昭和48年1973年刊。シンポジウムから帰った私は、日本語で書きかけていた論考を英語に書き直し、2003年から始めたWeb Site においてUpload する Paper と Essay のすべてを英語で行ってきた。幸いに数学系で書かれる論考に使用する語彙は極めて少なく、常用語は多分100語にも満たないであろう。常用語を超えた精密な表現は、すべて数式で表記される。私はここで、数式が汎世界語であることをあらためて知った。数少ない公理とそこから敷衍される定理の表記は、数式を理解すれば即座に全世界で理解可能なものであった。

以下は私の2003年から2007年に至る、Web上で公開した paper と Essay である。2007年以降は、公開する論考が多様となり、整理が複雑となったため、部分的に主題群を作り、その都度小さな整理を行ってきた。たとえば Theory がその一つである。Site も次第に複雑になってきたため、徐々に増加して現在に至っている。

SEKINAN LIBRARY
FILE 2003-2007

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