Thursday, 11 August 2022

If C be alive

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Kが送ってくれた一枚の版画は、Aの中でこれまで棚上げされていたいわば生きる姿勢に、いつか決定的な重みを与えていることに気づくようになった。それは遠くまでたどれば、Iがおぼえていてくれた、中央アジアの祈りを考えていたことにもつながってゆく。これまであまりにも茫漠として、どこからどのように接近していけばいいのか、まったく手つかずであったか、あるいは怠惰を口実に避けてきたかもしれない彼自身の思惟の対象に今度こそ真正面から向かいあう糸口が与えられたように感じた。一枚の版画の中には、それがたとえ錯視であれ、つぎつぎと花火を開かせる、流動する時間が存在した。それは漢字の意味の生成において想定される構造的な時間とつながる。それとは別に、中央アジアの壁画の中で菩薩や衆生が祈るとき、画面の中に祈りの時間が感じられる。それは漢字の内部に構造的に存在する時間とは異なるものだ。画面全体が或る事象の最終場面を示している。祈りは過去から始まりその時刻に至った。言い換えれば閉ざされた時間の最後を画面は提示していた。林巳奈夫は、殷周時代の青銅祭器に年代的秩序を設定する半世紀におよぶ作業の中で、角の有る神を龍以前の最高神と仮定した。ひとつの最高神の図像が悠久な時間の或る時期の最後の形態として登場する。合掌と有角神には共通して時間の堆積がある。それらの果てで、すべての形において、時間もそのひとつの要素であるところの意味を有する言語の存在が問われる。それは困難だが明確な思惟の対象だ。老子注で王弼は言う、「万物万形その帰は一なり、何に由りて一を致すか、無に由りて一なり、すなわち一つ一つは無と謂う可し、すでにこれを一と謂う、豈に言無きを得んや、言有りて一有り二に非ず、一有り二有りて遂に三を生むをいかんせん、無に従うの有、その数は尽きるか」と。無からひとたび有が生ずれば、すべてはそこから言語として派生する、と記す。無から有が生ずる言語の問題。王弼はさらに言う、「周とは窮まらざる所無く、極とは一に偏よらずして逝くなり、ゆえに遠なり」と。めぐるものはきわまることがなく、ひとつにかたよらないものは遠くに行く、と記す。巡回と無限の問題。王弼の注はふたつとも、言語の本質に係わり、Aの中では大鹿健一の仕事と重なった。v大鹿によれば、位相空間としてのタイヒミュラー空間の定義に始まり、サリヴァンとアールフォースの有限性定理を経て、幾何的有限群の極限として幾何的無限群が構成される、とする。簡約すれば有限から無限が構成される。言語は有限の語によって無限に文をつくることができる、この一見あきらかともおもわれる言明は厳密にはいかなる証明をも経ていない。従ってこれをひとつの予想Conjectureとするなら、大鹿はその解決 Solutionのためのひとつの強い方向を示唆した。むかし、そんなこと考えるなと、敬愛するCから言われたことに対して、今は正面から向かい合うときが来た。それは、Kから送られてきた版画に起因するが、今はすでに版画を超えるものだ。ただ版画が彼に、内在する時間というものを厳然としたひとつの事実として明示してくれたことは、途轍もなく大きなことだった。それがたとえ錯視の一現象であったとしても、それはもはや彼にとって何の障害にもならなかった。なぜなら彼が求めていたのは、日常の具象を超えた普遍性であり、それを明確に表記することであったから。しかしそれは、当時Cとの会話においてしばしば話題となった言語の類型性や音韻の弁別性から帰納されるような、すなわち事象として存在する個別の言語から導かれるような言語普遍性Language universals ではなかった。今、事象と普遍を結ぶものとして図形が現われた。一枚の版画がそのことを教えてくれた。時間や祈りや感情など、すなわちすべての意味あるものを包括する言語はなんらかの図形へと集約され、その図形は幾何の方法で表記される。薄明のながい夜が明けた。夜はながかった。かつて彼は言語の表記に対して直接に集合論を用いようとした。ゲーデルの不完全性の証明があまりにも衝撃的であり、そこでは不完全というひとつの明確な意味が完璧に表記されていたからだ。しかしその論理を言語そのものの意味に対して拡張することは20世紀なかばまでの数学基礎論の成果では多分至難であり、Aの能力からすればさらに無謀であった。それからの半世紀は数学の数学以外への応用を縦横に展開する方法を整えてくれた。ながい助走を終えて数学は広く世界に飛び立ったと、上野健爾は森田茂之との対談で述べていた。それは現代数学とともに歩み、ようやくたどり得た数学者の深い感慨であったのだろう。上野健爾と清水勇二の共著「複素構造の変形と周期」は数学的な対象全体への構造化を概観し、そのころ言語の構造的なモデルに腐心していたAに大きな転換を与えた貴重な本であった。 しかしふだんの生活に用いている自然言語に数学で表記できるような構造が内在するのだろうか。「クレタ人の嘘」と呼ばれる循環する真偽問題は、もし言語がメビウスの輪のような2次元の構造を持っていて、言語がその平面を一方向のみに移動するorientedと仮定すると、この不思議な命題は、真から僞へ、僞から真へと、その平面上でごく自然に際限なく繰り返すことは当然だった。言語についてほとんどすべてを教えてくれたCから、おまえは今何を考えているのか、とたずねられたことがあった。Aは当時、ゲーデルと親交のあった竹内外史の集合論に心酔していたから、意味の中に存在する構造を集合論的に考えていますと、素直に話したことがあった。するとCは即座に、おまえ、そんなことはやめろ、それはウィトゲンシュタインなどがやることで、おれたちがやることじゃない、と言って、Aの進む方向を心底心配してくれた。二人が一緒に帰る電車の中でのことだった。Cはさらにことばを接いでみずからをふり返り、おれは結局、研究者じゃなかった、解説者だ、と卑下することなく言った。―一度だけそのチャンスがあった。法則を発見したとおもった。言語における出現の頻度についてだ。それから二三日は調べまくった。すでにその法則は見つけられていたけどね。Cはそう言ってことばを止めた。年上だが彼はAに、年齢差や経験差を考慮することなく、彼の有する言語についての知見を可能な限り教えてくれた。言語にあるのは事実と法則、それが彼のすべてだった。Cはみずからそのいずれをも発見できなかったと明言していた。Aにはそのとき返すことばがなく、ただだまって受け止めるだけだった。この法則のことはその後もずっと気になっていたが、あるとき蔵本由起を読んで、ほぼ明瞭になった。Cが言っていたのは、アメリカの言語学者、ジョージ・ジップによって発見された経験則かそれに関連するものだったとおもわれる。蔵本に従えば、ジップの法則とは、文学作品などに現われる単語の出現頻度の順位は逆ベキ法則に従うというものだった。例示された時田恵一郎と入江治行の図によれば、シェークスピア、ダーウィン、ミルトン、ウェルズ、キャロルという異なる分野の著作において、見事な類似が示されていた。特にウェルズの「タイムマシーン」とキャロルの「不思議な国のアリス」ではほとんどまったく重複するカーブとなっていて、同一の作品ではないかとおもわれるくらいだった。二十世紀前半に発見されたこの卓越した経験則を、時田と入江はサンプルとなった著作に出現する単語において1から100000までの頻度とランクを解析しグラフ化することで、まちがいなく不動の科学的な法則であることを追認した。 すなわち著者がその思考を表現するために自由に選択したとおもわれるすべての単語が、この法則によればどの著者においても、どの単語を何回用いるかという相関関係においてはほぼ同一になることが、現代科学の数量的成果として美しいまでに示された。 むかしKから詩とは何かと尋ねられたとき、Aは、素朴なレベルで、詩とはそれまでの言語の規範から逸脱しようとすることだろうかと答えたが、今は文学全体が、人間が作ったであろう言語の強い法則に逆に支配されていることを本能的に知って、ながい果敢な闘いを挑んできたようにも感じられた。 ガリレイではないが、それでも異なる人間の著作が、これからもジップの法則に従って、常の同一に近いカーブとなり続けるだろうこともまた事実だ。Cはしかし、Aのこうした言語に対する過度な観念化を好まず、その生涯をかけて言語の事実とそこから抽出される法則を追い、それらを見出さなかった。そして或るとき突然の病いで逝った。言語学を愛した幾冊かの本を残して。最後の本の名は、「言語学への開かれた扉、Janua Linguisticae Reserata」。彼が言うように、扉は万人に開かれていた。ひたすら追うのであれば。Cが生きていれば、今またAに問うかもしれない。おまえは今何をしているかと。そしてAもまた同じように答えるだろう。事実ではなく普遍を追っています、こりることなくと。生きていれば、あの急な階段をのぼって、天井の低いテーブルでまた話していただろうか、Cよ。転注をめぐる研究の国境を超えたつながりの中で、再発見された転注論の貴重な原稿を損傷させないために、発見者みずからが飛行機に乗って届けてくれたことなどをだから途方にくれるようにまずしかった私はどれほど勇気づけられたか、Cよ。駅前の路地を入ってすぐ左の、掘っ立て小屋のようだったあの店の名まえはカリフォルニア。ぼくらの決して悲惨ではなかった忘却の紀念に、今はそれを書き記そう。しかしAは、Cの怒るような忠告を心から謝して受け止めながらも、違った方向をとり続けた。事実は彼の対象ではなかった。人間の事象である以上、すべては一度事実として顕現する。そこになんらかの法則が現われるかもしれない。しかしAはその方向を望まなかった。言語における内的構造は、Aの場合、集合論から図形を経て、幾何へと行き着いた。すなわち時間もまたひとつの意味である普遍的な言語を表現したものとしての図形を、明確に表記するただひとつの方法として、彼は今幾何を選び、そこにもう迷いはなかった。一枚の版画がそれらのすべてを導く原点に厳然として存在していた。岡潔が言っていたように、決定的なものはながい余韻を残す。Aは無性に町なかを歩いてみたくなった。かつて歩いたところを、いつもさまよってばかりいたところを、もう一度ゆっくりと歩いてみたくなった。 古本屋街のあるD駅へ都市線で向かった。古ぼけたホームから階段を下りる。低い梁がながい間の埃にすすけ、階段は黒く縁が磨り減っている。製図学校や簿記学校の活字の多い広告が変わることなく貼られていて、ああまたここに来たと彼はおもう。vi改札を出ると夕ぐれの町が若者たちの姿をなかばシルエットにして、行き来させる。左側に売店がある。その前方のガード下に幹線道路が走り、道路を路面電車がきしみながら過ぎて行く。右へ行けば古本屋街。中央のガードの下に、つまり都市線の下に、運河がながれている。駅名と同じ古ぼけたD橋が架かり、よどんだ水面をときおり平たい荷舟が通って行く。むかしとなにも変わらない。橋の向こうは大きな交差点で、その向こうに灰色の高い学校がある。夕ぐれの中に点々と、まだ学んでいるのか灯りがともっている。これもむかしのままだ。橋に立って川面をながめていると、人々が絶え間なくながれて行く。橋はそういうところだ。とどまるところではない。Aはそこから運河をながめているのが好きだった。荷舟はどこまで行くのだろう。いずれ海辺近い港か集積場で荷を降ろすのだろうか。荷舟は時のながれを二重にするかのように、よどんだ運河の上をゆっくりと下方へと移動して行く。運河の左手は駅舎で、右手は建物群の裏側になる。いくつもの看板が駅の方に向いている。東洋王者が構える姿を描いたボクシング・ジムのややゆがんだゴシックの看板はまだ健在だ。橋はもうところどころコンクリートが剥げ落ちている。古ぼけた町にふさわしい。錆びた鉄の欄干にもたれていると、今日は多いのかもしれない荷舟がまた橋をくぐって行く。 もはや本屋街をさまようことはない。対象は私のうちにある。私はただこの運河をながめていればいい。遍歴は終わった。たぶん永遠にマイスターにはなれないだろうが、みずからの小さな仕事場で、日が落ちるまで作業をすればいい。すると仕事場の窓辺を聖者が通って行く。かつてそんなロシアの民話を読んだ。 秋の日ぐれは早い。路面電車のヘッドランプがまぶしいくらいだ。黄褐色の窓に少ない乗客が照らし出され、古本屋街の方へ消えて行った。駅の売店がにぎやかな橙の光に包まれている。

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